58年10月10日月例祭



 今日、あたくしは毎日、お道の色んな、新しく出てくる御本を少しずつ読んでもらうわけですけれど、この度の後本部参拝で、えー、たくさん頂いてまいりましたご本の中に、神が作った宗教とある。ご本がございましたので、それを今日から少しずつ読んでもらっておるのでございますが、まさしく金光教の信心は、神様がお作りになった宗教である。とあたくしは思います。あたくしが頂いておりますことでも、宗教とは、その字が示すように、宗教の宗の字は、ウ冠に示すと書いてある。いわゆる天地が示すということ、それを教えるのが、真の宗教だと。人間の知恵とか力、才覚ででけた、の、宗教ではないと。そのことにひかれて、今日そのことを一番にとり上げて読んでもらったわけでございます。えー、どこの方かは、書かれたかは知りませんけれども、80何才。もう、まーあれを聞かせて頂きますと、もういろんな宗教を徹底して、勉強された方のようでございます。でそれを、教祖のお言葉、いわゆる天地の神様からお示しを受けられた御教えを随所に使って、ね、金光教が、ね、神様が作られた宗教であるという、いろんな例話を交えて、書いておられます。それを聞きながら思ったんですけれども、えーここまでは、金光教の信心を少し勉強すると、分かる事だけは分かるなーと。えー、または、過去のいろんな、信者とか先生方が言うた利、書かれたりしたことでも、わかりますように、けれどもそれを身を以て、心を以って、なるほど神様がお作りになった宗教だなということを、日日の生活の上に頂き表しておるという人は、またご本の先はどげなことが書いてあるかわかりませんけれども、それを思わせて頂くにつけ、まさしく合楽教会は神様が作られたお教会だなということを、まー実感せずにはおれない感じでございました。皆さんどう思われますか。合楽はね、確かに、合楽教会は神様がお作りになった教会です。

先ほど、御祈念中に今日は皆さんに、なんのことを聞いていただこうかと思わせていただきましたら、白扇をこう開いたかと思ったら、ここのところの大きな骨だけが、スッと動いたところをいただいたんです。こう開いたつもりだけども、骨だけで紙がついてきていないということ。あーいかに私が話そうというた所で、神様がこのお話の中に入ってくださり、神様がさせて下さるお話、いうならばこの骨に紙が伴のうて開かれるお話であり、おかげでなからなければ、本当の末広にならないということを、私そうですねー、いつもただ、まー、いうならば、私の心に模様してくることやら、お知らせをいただいたことやらを聞いて頂くのでございますから、あれを今日はいっちょ、こげな話をしてやろうといったようなものがない。とにかくこの骨に紙がいつもついてきて下さっておる。これは私のお話だけではない。今度の御本部参拝、祈りに祈り、願に願われて、千人参りの願いが成就した。しかも、あのように、第一お天候の上に、ね、千人もの中に一人の落後者もなく、本当に奇跡と言うたら、これが奇跡と思わずにおれないような、スムーズな御参拝のおかげをいただきました。本当に話を聞きますと、幹部の人達の、あのー、千人参りをすることのために、色々と、んー、お話し合いやらそれに伴う実際の御用を、それこそ2時までも3時までもかかられて、そして、えー、でけあがって、パンフレット一つでもでけあがったんだということでございますが、そういう人間の、働きというか、いうならこれは、もう、前にいただいた御教えの中に、ね、骨は氏子が削れ。紙は神が折るとお知らせいただいたことがあります。骨というのは人間が骨身を削って神様へ向かえと。紙は神が、いわゆる今日のご理解じゃないけども、この削った骨に神がピタッとついてやるぞというお知らせなんです。ね。だからいかに神が作った宗教というても、金光大神というひととなりの人が、ね、実意丁寧を、これ以上極められまいと思うほど死の実意を持って、天地金乃神様の御教えを、今日の御本の中にもございましたが、もう立ちい振る舞い、髭を一つするにも、天地金乃神様のお許しをいただいてお剃りになったということを書いてございましたが、それを思うてみて、あたくしもそうじゃったなーと思うんです。もう立たせて頂くにも、なんの用をさせて頂くにも、お許しをいただいてでございましたからね、でそれに、いうなら骨身を削らせてもらったそれに、神様がぴったり寄り添うて、広がってまいってあるのが、今日の合楽教会だと思うんです。

今日若先生が挨拶に出てきてくれまして、親先生、もう昨日から今日にかけて、今度初めて後本部参拝をしたと言ったような方達が、もう初めてお参りをして、おかげを頂きましたと、まー一人一人、足が立たなかったのが立つようになったとか、今までこんな病気であったのが、帰ってきたと同時に全快のおかげを頂いておるとかと、もうそういうおかげのお届けもでしたけれども、今度御本部参拝を皆さんと一緒にさせていただいて、感じられた、そのありがたいというものを、わざわざまたお礼に昨日今日、そういう御信者が続いておったということを聞かせて頂いて、ほんとにそうだなーと私も思いました。もう神様が寄り添うて、そういう人間のいろんな一生懸命の努力に神様が伴のうて下さって広がって、願い、いや願い以上のおかげを受けたのが、今度の100年祭であると思います。帰らせて頂きまして、控えておりましたら、長女の豊美がやって参りまして、もうお留守中、(しょっ?)送り合わせを頂いて、お参りがないかと思うたら、思いがけない方達のお参りがあったり、またはお届けがあったりいたしました中に、親先生が御本部参拝に立たれたそのすぐ後から、うー、そこの廊下に置いてありますでしょうか、千徳という銘柄のお酒がひと樽。今度の教祖大祭にお供えしてくれと言って、お供えを持って見えた。もう、古川が喜びますことが豊海が申しますんです。ね。お取り次ぎの場にお手代わりさせて頂いてから、もう一番初めに、ありがたい、いわば勿体ないおそれ多きというお神酒のお供えが、しかもその千徳という、千人参りの後に頂いたということが、それこそ神様がもの言うて下さる実感で、一日お留守を預からせて頂きましたと言うのでございます。私はそれを聞かせて頂いて、後本部参拝の一番帰りのご挨拶を古川の御神前でさせて頂いとりましたら、あのー大きな松葉かきですね。松葉かきに大きな虫がかかっておるお知らせを頂いたんです。松葉かきというものは、九州の信心を松の信心と言われるくらいですから、いうならば、もう信心、いわゆるおかげと言うてもよいでしょう。信心の(思い?)を頂いたというてもよいでしょう。まーいわゆるそのお徳がございますように、ね、それぞれが御神徳を受ける。それを集めることがでけれる内容をいただいたことだと思うておりましたら、帰りそうそう、まーそのことを聞かせて頂いて、もうほんとに、いうならば千徳という、千人参りの思いの人たちの一人一人に、神様がお徳を下さったんだな。下さるんだなという思い出、私も共々ありがたいと思うたことでございます。皆さんなんというてもお徳を頂かなければなりません。

私がこれは3、4日前、朝の御神夢でございましたが、うーん、。大きな川でもなければ、泉、堤、なん、大きな湖のような所で、私は裸になって、たくさん泳いでおる鯉を掴み取りして持って歩いておる姿でした。そして持って上がっておりましたら、その、泉の淵で何人かの、見たような方、知ったようなかたという方たちが、大釣りざおを持って、大釣りをしておられる所でございました。私はこういう大きな鯉を、あの頂いたことをその方達に話しましたら、その方の中の一人が、まーあたくしのお夢の中で、羨ましそうな顔をしておられる実感、それでいてそういうものをいつも頂きよったら、魚釣りの、釣り三昧というが、(三昧きょう?)の心がなくなるようと言われる。実際はその鯉がほしかろような顔をしながら、口では結局、釣れようが釣れまいが、じーっとこう、大釣りざお、いわば(お菓子?)を見つめながら、確かに釣りの好きな人の、まー、は、魚を釣るということもですけれども、そのやっぱり釣り三昧の境地と言ったうようなことが開けることは間違いないですね。これは私は目が覚めてすぐ思ったですけれども、今日のならお道の信心をさせて頂いて、金光教はほんとにありがたい、ほんとにありがたいと、まー小さいフナか、フナ子くらいを釣り上げたおかげでくらいで、ありがたいありがたい、もうそして、まー例えば昔でいうならば、大ばらいなら大ばらいをね、5巻も10巻もこうやって奉唱しておりますと、それこそ信心三昧の気持ちとはこういうことであろうかと思うように、心の中になんとはなしに、清々しいありがたい、いつまでたっても御神前を離れたくないような心の状態は開けてくるもんですね。えー、やっぱ三昧きょうなんです。だからそういう三昧きょうに浸っておって、ただ金光教がありがたいと言っておる、思っておるだけではなくて、実際にです、ここでは鯉のお知らせを御神徳と言われます。私がいただいたのは、こんな大きなひ鯉でしたけれども、ひ鯉は生みなす徳とおっしゃるですね。そしてそのお徳を頂く。これはここの田主丸に、鯉取りの名人がおられるそうですが、その方が言われるのに、寒中でも真っ裸になって、鯉の巣というか、鯉がおるところにそのやっと入ってから、そすと自分でこうとるのじゃなくて、この人間の体温にね、こう鯉が集まってくるんだそうですよ。それで、一番、スッと上がってくる時には、両腕に鯉を抱えて上がってこられるという、まー鯉とりの名人のかたの話なんです。
御神徳もやっぱそうだと思うんです。ただ金光教はありがたい。おかげを受けてから、本当にあらたかだなー、神様だなーと言っておるだけではなくて、そのことを通して、ね、様々な事柄に出会うたび、いうなら難儀な、難儀と思うておったその難儀の中から神愛を悟って、一段一段信心を進めていくという精進と、そういうおかげを積み重ねて、それが神徳ともなるというおかげを頂いたら、あとは神徳の方が寄ってきてくれ、いうならば神様の方が寄ってきてくださる。ということで、ただ信心がありがたいというて、ああいうりゅうあん寺の手洗い鉢じゃないですけれどもね、我唯足るを知ると言ったような悟りすましたような気持ちでおりますけれども、それだけではいかん。不平はない、不足はないというておるだけではいかん。それには人間の様々な幸福も、いうならあー条件、そういうものが、言わずして、願わずしてこう集まってくるようなおかげの中にあって、もちろん、いうなら三昧きょうも必要です。信心のあり方それをいよいよ深めていく、高めていくということはありがたいのですが、それにおかげが伴うおかげ。いうなら御神徳が、身についてくるよってくるようなおかげを合楽にご縁をいただいておる皆さんが、一人一人頂くという気にならなければならないと思うのです。それにはまず氏子が骨を削れて、いうなら精進である。ね。その骨を削ったところに神様が、これに寄り添ってくださる。

そしてこれが一つとなって、いうならあたくしが御本部でいただきました、この白扇が、今度の千人参りのことをお礼申させて頂きましたら、ね、そしてこれがちょっとこう反対になるところを頂いて、それが私の心眼に、富士の山に見えました。『白扇を逆さに持つや富士の山』といった句がございますよね。まー私が30数年前、福岡教会に御参拝のおかげを頂いておる時に、いうなら30数年前に、ね、今日の合楽の御ひれいを神様が暗示しておって下さった。記しておってくださった。一線上のラインの前に立った、ランニングシャツをきた10人余りの方達、ね、教祖100年祭、いわゆる100年祭を目指せと。100年祭を目指せて、まーだ30年何年もあるのに、まー夢のようなお知らせだなと思っておりましたけど、ね、本当に今度の千人参りを果たさせて頂いて、思わせて頂くことは、神様の仰には一部一厘の間違いがないなー、おかげの中に。それを頂くも頂かないも、いうならそのことを頂こうしとる精進が続けられて初めて、神と人とあいよかけよのおかげの世界。ね、また神様の方が寄り添うて下さるほどしの御神徳、それにはね、ただ釣り三昧でじっとこう、三昧きょうがありがたい合楽がありがたいと言っているだけではなくて、そしてはやかフナかなんかを釣り上げるだけに止まらずに、ね、何を、ここでは一つ、日頃の信心を表すときはこういう時だというのがありますわね、難儀なら難儀、一般で言うなら難儀、信心しておってどうしてこういうことが起きてくるであろうかと思うようなことがございますけれども、そういう時にあたくしは一心発起、いわゆる裸になって寒中にでも、ね、川に飛びこませていただけるような、一つの、それこそ踏み倒されても横に咲くというように、そこから一段と信心を進めていく、信心が願われ、そういう時に、いわゆる釣り三昧の境地に、ただ金光教をありがたいと思うておった、その心の状態に、本当にありがたい、誰が聞いてもありがたい、誰が見られてもおかげだなーと、

ね、今日、樺目のある御信者が夫婦で、あたくしのところにお見舞い方々、今度の御本無参拝を家族でさせて頂いて、樺目からたくさんお参りが、日頃信心がない方達がお参りになっとたそうですね。そしてもうその一人一人が、もう初めてお参りさせて頂いた、合楽の親先生に会わせて頂いただけで、もうほんとにありがたかった。もうありがた大変ありがたかったと、もう一人一人が言われるそれを今日は伝えにきて下さったような感じで、今度の100年祭を、にあわれた方達がありがたいものを受けられたと。ね。いうのでございますが、話を聞くと、おかげを受けておられます。ね、そういうおかげがね、あのご参拝の内容の中に、お互いあったし、頂いておったんだと。そしてあたくしどもが、神様が、ね、千人参りに一人一人にお徳を下さる千徳のおかげが合楽教会にでけた。だから皆さんが、結局頂こうと、ただ三昧きょうに浸っておるというだけではなくて、ね、これはなかなか一心発起ということはできないのですけれども、そこに頂いておる日頃の、いうならば合楽理念を実験するときはこういう時だ。実証させて頂くときはこういうときだという、一つの勇猛心を持って、元気な心を持って、そのことに取り組ませて頂く。ね、そこにあたくしは、ね、神様の方が寄り添うて下さると、皆さんその千徳の一徳でも身につけさせて頂いて、これは今も申します、金光教は神様がお作りになった宗教であるという事実を考え考えればいただくほど、なるほど合楽教会は神様がお作りになったお教会であるなー。そういう教会にご縁をいただいておる皆さん一人一人もです、ね、神様が下さろうとするおかげ、いう、あたくしどもがいう、神願が、ね、成就します、あたくしにかけられる神様の願いが成就する、そういうおかげをいただくために、お徳を頂かなければならん。神様が下さる、下さろうと意気込んで下さってある、模様を、今度の千人参りのおかげの中に感じさせて頂きました。いよいよ16日の教祖100年、教祖大祭が、合楽教会で取り行われます。ね。いよいよ御大祭に向かって、何をかそこに一心を発起させてもらって、ね、神様の願いにお応えできれるようなお祭りにしたい、またそういうお祭りにあわせて頂きたいと思います。金光教は神様が作られた宗教、ね、それをあたくしは、宗教とは天地が示す、宇宙の宇、それを教えるのが真の宗教である。合楽ではあたくしが、神様から頂く御教え、それを実験して実証して、また実感して皆さんに聞いて頂くのですから、間違いがない。ね。私がじゃない。私がこの骨を削るだけ、ね、これに神様がいつの場合も寄り添うてくださって、いよいよ末広のおかげをくださろうとしておるお心、御神願にお応えでけれるような、ただ三昧きょうに、ただ酔いしれておるだけから、人がちった羨ましがるくらいな、ね、じっと頭を垂れて、じーっと釣れもせんのに、ね、ここに三昧きょうがあるかもしれませんけれども、そういう程度で信心を留めずに、ね、ほんとに神様が寄り添うて下さるほどしの御神徳を受けるために、いよいよ本心の玉を磨くものぞ。日々の改まりが第一ぞということを根底にして、合楽理念に基づく信心生活をいよいよ広く、または自分の心の中に深く、いただいて信心を進めていきたいと思います。どうぞよろしくお願いいたします。